ピストルとアメリカと夜

さて、あたしは今日も当たり前にあたし。
ピストルズ』もようやく残すところ200ページ弱って感じだから、ゴールデンウィークに入る前には読み終わるかも、しれないし、終わらないかも、しれない。そんなことはあたしにはわからないし、別に知りたいとも思わないし、だって終わろうと終わらなかろうとそれは確かにそこにある(らしく)見えるのだから、それでいいじゃないの。
あたしが19歳に見えたり24歳に見えたりしたとしても、それは単なる「あたし」であって、当たり前のようにその「あたし」は複製される。「あたし」は「あたしたち」になる。

大切なのはその物語が「あたしたち」になるところで始まるのか、それとも終わるのか、ということだ。

ぼくはスクリーンの中の少女と、隣ですやすやと小さな寝息を立て眠っている少女とを見比べ、ぼくたちの「これまで」とそして「これから」を語ることをようやく決意する。
スクリーンの中の少女はフィルムが荒れてしまって、もうそれが少女であるとはっきりと判別することはできなかったし、寝息を立てているこの少女は5年前に声を失ってしまった。

そこであたしは目覚める。お昼寝から目覚めて、そして街へと繰り出す。

今日はブック・オフで
・青空感傷ツアー(柴崎友香)
・ショートカット(柴崎友香)
野ブタ。をプロデュース(白岩玄)
・麦ふみクーツェ(いしいしんじ)
を買った。全部105円だった。ほんとは実は読んでない阿部和重の『シンセミア』とか『グランドフィナーレ』とか買いたかったんだけど、なかったんだから仕方ない。し、ゴールデンウィークまでに『ピストルズ』が読み終わるなんて誰にもわからないんだから、あたしは当面『ピストルズ』を左手に『アメリカの夜』を右手に世界と戦っていかなきゃいけない。

あたしは声を失った代わりに、ピストルとアメリカと夜を手に入れたんだ。



④『第9地区』(ニール・ブロムカンプ)☆☆☆☆☆☆

そんなの全然スイートじゃない!

さて、今週は何だか寒かったり暑かったりでいやいやよな毎日でしたね。
それにしても週一回なのにいざこうやってパソコンの前に向かうと何にも出てきませんね。言葉はきっと絶えず失われて行って、わたしたちはいつだって失語症

そう、次回作は失語症非実在青少年perfume相対性理論初音ミクと舞城とまぁ、そのあたりがぐちゃぐちゃに混ざった感じの小説になる予定です。久しぶりに男が主人公です。萌え少女も出てきます。パンチラもありです。精子も出てくるかもしれません。でも、それは恐らくどこにも向かいません。

さて、濱野智史さんの『アーキテクチャの生態系‐情報環境はいかに設計されてきたか』を読んだわけですが、これはとても丁寧な文章で書かれたもので、かつコミュニケーションをめぐる問題を主として論はなされており、非常に刺激的なものでありました。
ニコニコ動画の疑似同期性は、テレビを再び疑似的に取り戻すということ、すなわち『バーチャルお茶の間』の実現を意味しているということができます」
のくだりとか、たまらんかったです。ニコ動の疑似同期性についてはさんざん言われていますし、実際にニコ動を見たことがある人であればあの「疑似お茶の間」に誰もが感動しているとは思いますが、あれが感動的なのはやっぱりそれが「疑似」であるからだと思います。もうぼくはフィクションに憑かれているのであれですけど、なんですかね、「疑似」とか「偽物」とかそういうものに惹かれてしまうこの気持って。そしてそれをわかりながらわいわいやっているあの「共犯感覚」みたいなもののエロティックさといったら!
そして、そんなことを考えていると、散々罵倒してきた『ハルフウェイ』も、もしかしたらあれは「疑似」でしかないものであったもかもしれません。そう考えると、やたらエロい目でしかきいちゃんを見れなかったわたしのあのときの違和感も解消されますしねw

それにしても文章って書かないと一気にぐだーってなりますね。この前読了した『熊の場所』(舞城王太郎)に収録されていた「ピコーン!」には自転車や泳ぎ方やフェラチオは一度コツを掴んだら忘れない、みたいなことが書いてありましたが、文章ってそうもいかない気がします。でも、フェラチオをすることと文章を書くことはわりと似ている気が、今こう書いててしたので、たぶんフェラチオが巧い人は文章が巧いし、文章が巧い人はフェラチオも巧いと思います。それは、どちらも「対象」がないと向上はなされ得ないものだからです。

と、誰も読んでいないであろうことをいいことにひどいことばかり書いてしまいました。しかしそれは「ブログ」という媒体にとって「対象」はひどく見えにくいからであると思います。

余談はおいておいて、濱野さんにはぜひ「『素直になれなくて』におけるツイッター論」みたいなものを書いて欲しいなぁと勝手に思っています。てゆーか多分どこかで軽く書くと思うけど。


あと、舞城のよさは多神教的なよさだよなぁとぼんやり思ったのでした。

㊀『アーキテクチャの生態系』(濱野智史)☆☆☆☆☆☆☆☆

㊁『熊の場所』(舞城王太郎)☆☆☆☆☆☆☆☆

③『スイートリトルライズ』(矢崎仁司)☆☆☆☆☆☆☆☆★

スイートリトルライズを観終わったあと、「とんでもないものを観てしまったぞ」という思いだけが残った。矢崎仁司は真面目に冗談を言って、黒澤清はおどけて冗談を言う。わたしが好きなのは圧倒的に前者で、後者はあまり好きではない。そんなことも思った。

スイートリトルライズは言葉にしづらいが、恐ろしいほどの緊張感を漂わせていた。視線運動、音演出、絶えず「ずら」される意味。画面に映されるものだけを信じてはいけない。あれはちょっとした恐怖体験ですらあった。

死に物狂いのかげろうを見ていた

ついった見て一週間を振り返ってみる。
とりあえず「けいおん!!」見てCPのCMに涙して(そしてその後しばらく脳内M川きゅんと戯れて)、花見をしました。

けいおん!」一期については以前やまねこブログの方で簡単にまとめたので、今回もまた簡単にまとめられる程度には見ていきたいものです。とりあえずオープニングはよかった。

それと、困ったことにCM見てたら映画撮りたくなってしまった。もう映画は一生撮らない覚悟を割としていたのだけど、簡単な映像とかならいいでしょ、ねぇ、いいでしょ?

花見は楽しかったし、何より戻れる場所があるっていいなぁと思った。でも、きっと3年後、4年後、彼らが卒業してしまったあとには、そこは帰る場所じゃなくっているんだろうなぁとも思います。

ブログに書こうと思っていたことがいくつかあったのだけど、全部忘れちゃったよ。
年とると何もかもが持続しなくなって嫌なものです。
でもきっと、そんなのは言い訳なのです。

濱野さんの『アーキテクチャ生態学』を今更読み終えたので、今日まとめようと思っていたのだけど、こんな時間になってしまったので、また来週にでもまとめたいと思います。

今日はこの後仕事関連の本を少し読みます。
さて、『ピストルズ』はいったいいつになったら読めるのだろう……。
(そして、ブログの体裁はいつになったら整えられるのだろう……)

お前はお前の当事者であるのか?

昨日は映画を観ました。
時をかける少女』と『ソラニン』です。
映画が撮りたくなって、バンドを組みたくなりました。
単純です。
映画観るの久々すぎて、普通の観客として楽しんでしまいました。
物語構造とかそんなの考える以前の、「りーさちゃん可愛いー」とか「芽衣子! 芽衣子!(もはやあおいちゃんじゃない)」状態。
なので特に書けることがありません。
物を作る人間のはしくれとして恥ずかしい気もしますが、こんな気持は久しぶりなので、まぁこれはこれでいいかという感じでもあります。
あと、ソラニンのとき、隣にはおっさんが座っていたのですが、元バンドマンだったのでしょうか、件のライブシーンで目頭を何度も強く指で押さえていて、それが本編以上にグッときました。男泣きです。
あーバンドやりてー。ギター弾きてー。


以下、なんとなくネタばれの可能性もあるので、未見の人は読まぬように。

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それと、マンガ読んだときにどうして気付かなかったのか謎ですが、これって「きみ(芽衣子)とぼく(種田)」の話じゃなくて「ぼく(種田)とぼく(種田)」、「わたし(芽衣子)とわたし(芽衣子)」の話だったのですね。ぼくやわたしが自分の当事者になる話。
そして、わたしたちはどうやってそれを得るのかというと、当たり前のように「音」です。わたしたちは誰もが生まれるときに泣き声をあげます。「わたし」の当事者になるためには、音がなくてはならない。だから、音を放棄した種田(物語の途中、彼は前のバイト先に頭を下げて、もう一度雇ってもらいます。バンドは続ける、と言っていますが、それは自分のためというよりも、芽衣子のためのように見えます)は死に、しかし一方、残された芽衣子はバンドでギターをかき鳴らし、声を限りに歌うことでもう一度生きることを許されます。

正直、ぼくは働き始めのこの時期に観るもんじゃなかったなとやや後悔したのですが、むしろ今だからこそ観る必要があったように思います。

「お前はお前の当事者であるのか?」

画面はそう問いかけてきました。
そしてぼくは、きちんと当事者でいられるように、音を、声を、きちんと発し続けようと、心に誓ったのでした。


時をかける少女 ☆☆☆☆☆★
ソラニン    ☆☆☆☆☆☆★

(☆は10コで満点。★はひとつ0.5点)

風と共に去りぬ

さて、学生時代も今日で終わり。しばらく長い文章も書いていなかったので、せっかくだしまとめてみることにします。
多分(というか絶対)長くなるので、①根気よく読むか、②流して読むか、③読まないか、今のうちに決めてしまうことをお勧めします。もちろん、途中でコース変更するのもありです。

日記的なものをいつ以来書いてないのかなーとmixiの日記を覗いてみると、去年の12月30日以来書いていませんでした。しかもその日記は振り返り2009なるもので、さらに言えば「書いた」というよりも「まとめた」という体のものでした。

なので、2010年のはじまりから今日までの三カ月にあったことを振り返ってみようと思います。今回は「まとめる」ための過去の記録は存在しません。そこやここにただただ記憶があるだけです。だからぼくは「書き」ます。「書き」始めます。

主なトピックは以下になります。
①就活の顛末
②卒業旅行
③免許合宿
④追いコン
⑤大学生活を振り返って
⑥これからについて

では、本編の開始です。


①就活の顛末
結果はもう知っている人も多いので、まずそこから話を始めると、広告を制作する会社に勤めることが決まりました。HP制作を中心にプロモーションとか自社ECサイトの運営とか、あと昔はショートフィルムの企画みたいなこともやってたらしいです。こう改めて書くといろんなことに手を出しちゃやめてる駄目な会社みたいですが(笑)。でも、いい会社だと思います。少なくとも、ぼくが就職活動を通して出会った80くらいの会社の中では、一番しっくりきました。

ぼくはもともと大手志向ではなく、割とやりたいことがはっきりしていたのでテレビ局も配給会社も一切受けませんでした。電博も受けていません。もちろん、受けていても受かってないだろうと思うので、そんな話はどうでもいいといえばどうでもいいのですが、じゃあどうして受けなかったのかというと、ぼくは自分のメディアが欲しかったからです。もう少し詳しく説明すると、大小は問わないので自分の力をある程度作用させることができる(それも早い段階で)メディアに携わりたかった、ということです。うーん、まだわかりづらいですね。もうちょっと言い方を変えると、「メディアを介して社会とコミュニケーションをとれる仕事がしたかった」という感じになるかと思います。

「でも、それならテレビ局や電博でもいいんじゃないの?」

確かにそれはそうです。でも、それは「個人として」というよりも「会社として」の関わりというニュアンスが強いと思うんですね。ぼくはより「個人度」の強いメディアに関わりたかった。具体的に言うと、ぼくは雑誌が作りたかったんです。もっと言うと、「BRUTUS」が作りたかった。つまり、マガジンハウスが第一志望でした。

「この出版不況によくもそんなことが言えたわね?」

今考えると、確かにそう思います。ただ、「だからこそ」という気持がありました。映画やテレビと比べてはるかに自分の色を反映しやすい雑誌というメディアで、面白いことがやりたかったのです。しかし、就職活動を続けていくうちに出版社全体のあまりにお気楽な態度や発言を見たり耳にしたりすることが増え、そのあまりの古臭い考え方に唖然とし、やがて出版業界への道を諦めました(ちなみにマガジンハウスは書類で落ちました)。もちろん、そうではない会社もありましたし、今でも「出版」それ自体には興味はあるので、いつか雑誌作ったりマンガの編集したりしたいなーとか思うことはあります(その気持の結晶がやまねこるーぷの結成へと繋がるわけです)。

①ですでにこの長さだとうんざりしてしまいますね。
久々に長文を書くと逆にだらだらと長くなってしまうので、人生はむつかしい。

さて、では出版社への道を諦めたあと、ぼくは何を目指したのかというと、それは「ネット」でした。もっというと、ECサイトの運営に惹かれていきました。というのも、ECサイトを運営する立場になれば、それはある程度社会的に認知されている(もちろん、それはテレビなどのメディアからすれば足元にも及びませんが)メディアを持つことができるからです。乱暴に言ってしまえば、雑誌の数ページを任されるようなものだと思います。実際、会社にECサイト運営の話を聞いたところ、どこもいくつかの縛りを除いて、あとは自由にページ制作をしてよいという返答をいただきました。

それからはひたすらECサイトを運営している会社を中心にweb、モバイル業界を受けていきました。が、実際はwebよりもモバイル業界の人たちとの方が話は合いましたし、最終まで残ったV社、F社はモバイル、内定をいただいたW社と明日から働くことになるS社はwebということなので、まぁ、縁ってそんなもんよね、といった感じです。

(早くも長文に飽きてきてしまったぞ……!)

そもそも、ぼくが働きたいと思ったのは、その方が単純に自分の声がより広く深く社会に浸透すると感じたからです。誤解を恐れずに言えば、ぼくにとって会社はジャンプ台だということです。

ぼくは、世の中には①「働くのが逃げになる人」と②「働かないのが逃げになる人」が存在すると思っています。そして自分は②であると。もちろん、逃げることが悪いことだとは思いませんし、逃げるが勝ち、という言葉もあるように、逃げ切れればそれはきっと勝ちでしょう。ただ、ぼくは基本的に逃げるのが好きではないし、ましてや逃げ切れるなんて思っていなかったので、②を選択したまでです。

「じゃあ、どうしてあなたは自分を「働かないのが逃げになる人」であると規定したの?」

一言でいってしまえば、それは「声が小さい」からです。例えば、映画の監督になりたい人がいるとします。その人がガンガン人や社会と繋がっていける声の大きい人であれば、就職などせずに色々な現場に顔を出していけばよいし、いや、モノを作るのは好きだけど、外に出て行くのは……という声の小さい人はやはり就職すべきなんじゃないかと思います。

「外に出ていけないのに就職なんてできるわけないじゃない!」

そうですか。じゃあ、どうします? 
結局どちらにせよ、ぼくたちは選択を迫られます。もちろん、本当に才能のある人であれば、声が小さくとも、それをキャッチし、プロデュースしてくれる人に出会えるかもしれません。それだけの自信があればよいでしょう。ぼくは自分に才能があるだなんて思ったことがないだけです(いや、嘘です。高校のときは自分の才能を信じて止みませんでした)。ただ、組合せのセンスは他の人よりは多少自信があります。「本物」にはなれなくとも「そこそこ」にはなれると。だからこそ社会に出たかった。 ぼくは本物になんてならなくてもよいのです。そこそこの偽物にさえなれれば満足なのです。そしてそれは妥協ではないはずです。人はみなが勇者になれるわけではないし、勇者はいつだって孤独です(それは、『ダイの大冒険』や『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』に明らかです)。そして、ぼくは世界を守るため、あるいは救うために犠牲になどなれそうにありません。本物になる、というのはそういう覚悟を持つということだと思います。ぼくが『ワンピース』の中ではウソップが一番好きなのは、彼がやはり偽物である点にあります。彼はしばしば嘘をつき、ときにウソップではなく「そげキング」として活躍します。もちろん、「本物になる!」という意気込みは強いでしょう。ただ、彼が本物になることはないような気がします。そして、それはまったく哀しいことではないのだとも思います。偽物には偽物としての役割が、やはり確実にあるはずですから。


②卒業旅行
タイに行って来ました。楽しかったけれど、異国にはひとりで行くべきだなとも感じました。モモずきんさんの、「日本だと当たり前にどこ行ってもコミュニケーションが成立するけど、こういうところだとそれがうまくいかないよね。でも、これこそが本当だよね」みたいなことを言っていて、そのときは「あ、うん」みたいなそっけない返事しかできなかったのですが、改めて考えてみると、本質をついているなぁと日本に帰ってきてから思いました。


③免許合宿
かつて仮免の技能試験で12回落ちたぼくも、どうにか免許を手に入れることができました。危うく最終学歴が「自動車学校中退」になるところだったので、一安心です。


④追いコン
楽しかったし、嬉しかった。それだけでいいと思います。どこにも所属できなかったぼくの居場所となったここが、また違う誰かの居場所になってくれるといいなと素直に思いました。いつか、みんなと仕事がしたいと本当に思っています。


⑤大学生活を振り返って
映画ばかり撮っていた気がしますが、最後にやまねこるーぷを結成し、雑誌を出せたことが本当に嬉しいです。これからも、世界を大いに盛り上げるためのやまねこるーぷをぜひよろしくお願いします。個人的にあんまりワンマンでやりたくはないので、勝手気ままに(それこそ、ねこのように!)面白いことをみんなで企画してわいわいやれたらなと思っています。

「え、終わり?」

うん。大学生活なんて、そんなもんさ。


⑥これからについて
とりあえず働きます。落ち着いてきたら小説を書き始めます。ブログは毎週日曜日に更新予定です。
何より、楽しく生きていきたいと思います。
では、また今度。

「ねぇ、①〜⑥の配分がおかしいわよね。あなた絶対途中でめんどくさくなったんでしょ?」
「まぁ、書き始めなんてだいたいいつもこんなもんさ」
「え、これでおしまいなんじゃないの?」
「何言ってるんだよ。まだこれからじゃないか」
「なーんだ、そうなの。確かに、幕あがったままだものね」
「というか、ここはスクリーンの中なんだけどね」
「あら、そうなの? じゃあ、わたしたちはさしずめヴィヴィアン・リークラーク・ゲーブルね」
風と共に去りぬ、か」
風と共に去りぬ、ね」