そんなの全然スイートじゃない!

さて、今週は何だか寒かったり暑かったりでいやいやよな毎日でしたね。
それにしても週一回なのにいざこうやってパソコンの前に向かうと何にも出てきませんね。言葉はきっと絶えず失われて行って、わたしたちはいつだって失語症

そう、次回作は失語症非実在青少年perfume相対性理論初音ミクと舞城とまぁ、そのあたりがぐちゃぐちゃに混ざった感じの小説になる予定です。久しぶりに男が主人公です。萌え少女も出てきます。パンチラもありです。精子も出てくるかもしれません。でも、それは恐らくどこにも向かいません。

さて、濱野智史さんの『アーキテクチャの生態系‐情報環境はいかに設計されてきたか』を読んだわけですが、これはとても丁寧な文章で書かれたもので、かつコミュニケーションをめぐる問題を主として論はなされており、非常に刺激的なものでありました。
ニコニコ動画の疑似同期性は、テレビを再び疑似的に取り戻すということ、すなわち『バーチャルお茶の間』の実現を意味しているということができます」
のくだりとか、たまらんかったです。ニコ動の疑似同期性についてはさんざん言われていますし、実際にニコ動を見たことがある人であればあの「疑似お茶の間」に誰もが感動しているとは思いますが、あれが感動的なのはやっぱりそれが「疑似」であるからだと思います。もうぼくはフィクションに憑かれているのであれですけど、なんですかね、「疑似」とか「偽物」とかそういうものに惹かれてしまうこの気持って。そしてそれをわかりながらわいわいやっているあの「共犯感覚」みたいなもののエロティックさといったら!
そして、そんなことを考えていると、散々罵倒してきた『ハルフウェイ』も、もしかしたらあれは「疑似」でしかないものであったもかもしれません。そう考えると、やたらエロい目でしかきいちゃんを見れなかったわたしのあのときの違和感も解消されますしねw

それにしても文章って書かないと一気にぐだーってなりますね。この前読了した『熊の場所』(舞城王太郎)に収録されていた「ピコーン!」には自転車や泳ぎ方やフェラチオは一度コツを掴んだら忘れない、みたいなことが書いてありましたが、文章ってそうもいかない気がします。でも、フェラチオをすることと文章を書くことはわりと似ている気が、今こう書いててしたので、たぶんフェラチオが巧い人は文章が巧いし、文章が巧い人はフェラチオも巧いと思います。それは、どちらも「対象」がないと向上はなされ得ないものだからです。

と、誰も読んでいないであろうことをいいことにひどいことばかり書いてしまいました。しかしそれは「ブログ」という媒体にとって「対象」はひどく見えにくいからであると思います。

余談はおいておいて、濱野さんにはぜひ「『素直になれなくて』におけるツイッター論」みたいなものを書いて欲しいなぁと勝手に思っています。てゆーか多分どこかで軽く書くと思うけど。


あと、舞城のよさは多神教的なよさだよなぁとぼんやり思ったのでした。

㊀『アーキテクチャの生態系』(濱野智史)☆☆☆☆☆☆☆☆

㊁『熊の場所』(舞城王太郎)☆☆☆☆☆☆☆☆

③『スイートリトルライズ』(矢崎仁司)☆☆☆☆☆☆☆☆★

スイートリトルライズを観終わったあと、「とんでもないものを観てしまったぞ」という思いだけが残った。矢崎仁司は真面目に冗談を言って、黒澤清はおどけて冗談を言う。わたしが好きなのは圧倒的に前者で、後者はあまり好きではない。そんなことも思った。

スイートリトルライズは言葉にしづらいが、恐ろしいほどの緊張感を漂わせていた。視線運動、音演出、絶えず「ずら」される意味。画面に映されるものだけを信じてはいけない。あれはちょっとした恐怖体験ですらあった。