お前はお前の当事者であるのか?

昨日は映画を観ました。
時をかける少女』と『ソラニン』です。
映画が撮りたくなって、バンドを組みたくなりました。
単純です。
映画観るの久々すぎて、普通の観客として楽しんでしまいました。
物語構造とかそんなの考える以前の、「りーさちゃん可愛いー」とか「芽衣子! 芽衣子!(もはやあおいちゃんじゃない)」状態。
なので特に書けることがありません。
物を作る人間のはしくれとして恥ずかしい気もしますが、こんな気持は久しぶりなので、まぁこれはこれでいいかという感じでもあります。
あと、ソラニンのとき、隣にはおっさんが座っていたのですが、元バンドマンだったのでしょうか、件のライブシーンで目頭を何度も強く指で押さえていて、それが本編以上にグッときました。男泣きです。
あーバンドやりてー。ギター弾きてー。


以下、なんとなくネタばれの可能性もあるので、未見の人は読まぬように。

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それと、マンガ読んだときにどうして気付かなかったのか謎ですが、これって「きみ(芽衣子)とぼく(種田)」の話じゃなくて「ぼく(種田)とぼく(種田)」、「わたし(芽衣子)とわたし(芽衣子)」の話だったのですね。ぼくやわたしが自分の当事者になる話。
そして、わたしたちはどうやってそれを得るのかというと、当たり前のように「音」です。わたしたちは誰もが生まれるときに泣き声をあげます。「わたし」の当事者になるためには、音がなくてはならない。だから、音を放棄した種田(物語の途中、彼は前のバイト先に頭を下げて、もう一度雇ってもらいます。バンドは続ける、と言っていますが、それは自分のためというよりも、芽衣子のためのように見えます)は死に、しかし一方、残された芽衣子はバンドでギターをかき鳴らし、声を限りに歌うことでもう一度生きることを許されます。

正直、ぼくは働き始めのこの時期に観るもんじゃなかったなとやや後悔したのですが、むしろ今だからこそ観る必要があったように思います。

「お前はお前の当事者であるのか?」

画面はそう問いかけてきました。
そしてぼくは、きちんと当事者でいられるように、音を、声を、きちんと発し続けようと、心に誓ったのでした。


時をかける少女 ☆☆☆☆☆★
ソラニン    ☆☆☆☆☆☆★

(☆は10コで満点。★はひとつ0.5点)