メモ

ⅩⅠ.とても透明で やさしい しあわせ(三友恒平) ☆☆☆☆★
ⅩⅡ.ソラミミ(やまだないと)  ☆☆☆☆☆☆☆☆★
ⅩⅢ.学校の時間 上 クールな女の子(長田佳巳)  ☆☆☆☆☆☆☆★
ⅩⅣ.学校の時間 下 ホットな女の子(長田佳巳)  ☆☆☆☆☆☆☆★
㊁㊉へヴン(川上未映子) ☆☆☆☆☆☆☆
㊁㊀図解 Webサイト 構築・運営&デザインがわかる ☆☆☆☆☆☆
㊁㊁星座から見た地球(福永信) ☆☆☆☆☆☆☆☆
㊁㊂わたしたちの田村くん 1(竹宮ゆゆこ) ☆☆☆☆☆☆
㊁㊃わたしたちの田村くん 2(竹宮ゆゆこ) ☆☆☆☆☆☆
㊁㊄MUSIC(古日出男) ☆☆☆☆☆★
㊁㊅乙女の密告(赤染晶子)  ☆☆☆☆☆☆
㊁㊅アクロバット前夜(福永信) ☆☆☆☆☆★
㊁㊆星座から見た地球(福永信) ☆☆☆☆☆☆★

魔法使いの弟子(元)

一か月分。

最近は映画全然観てないのでまずい。
そして演劇なんて一本も観てないのでもっとまずい。
だから毎月頭の休みにその月に観る映画と演劇をリスト化することにする。
本は仕事関係の本を1,2冊入れること。


⑪告白(中島哲也) ☆☆☆☆☆☆☆★
トイ・ストーリー3(リー・アンクリッチ) ☆☆☆☆☆☆☆★

㊉㊄gift(古川日出男) ☆☆☆☆☆☆☆☆★
㊉㊅使ってもらえる広告(須田和博) ☆☆☆☆☆☆☆☆★
㊉㊆よくわからないねじ(宮沢章夫) ☆☆☆☆☆☆
㊉㊇20代、お金と仕事について今こそ真剣に考えないとヤバいですよ!(野瀬大樹・裕子) ☆☆☆☆☆☆☆
㊉㊈ゴーストバスターズ(高橋源一郎) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆

Ⅺ.とても透明で やさしい しあわせ(三友恒平) ☆☆☆☆☆★


『告白』の中島哲也はここ数十年の監督の中でも作家性の強い監督だと思っているのだけど、いつもの「速度」と「魔法」が半ば意図的に封印されていて、後半のあるシーンなんかではもはや魔法が機能しないことをわざわざ見せつけるなんてこともやっていて、戸惑ってしまった。あたしに魔法を教えてくれたのは中島監督だった。しかし彼はすでに魔法の先に行こうとしているのかもしれない。だったらあたしはどうしたらいい? かつて魔法使いの弟子だったあたしはもう魔法使いの弟子ではいられなくて、だって中島監督はもう魔法使いを辞めてしまった。あたしは魔法使いになるんだろうか。なると思う。少なくとも今のあたしには「速度」と「魔法」だけが頼りなのだ。

トイ・ストーリー3』は演出というか、作り手の立ち位置がいつもと違うなぁと思っていたら、単純に監督がいつもと違う人なのだった。しかしここでもハッとさせられてしまったのは、ここでも当然のように「魔法」が機能しないことなのだ。

「魔法なんてない。あるのはただの現実だ。そしてその現実は誰かが勝手に与えてくれるものではない。自分たちで選び取るものだ」

映画はそう語っているように見えた。
とはいえ普通に泣いちゃったけど。内容は思ったよりビターテイスト。
あと前座っぽく流れる『ナイト&デイ』って短編アニメーションの出来が非常によくて、そりゃもう感動しました。

生活のサイクルをそろそろ作っていくために一週間、一カ月、三か月、一年ごとのスケジュールを立てようと思う。今ちゃんと先見て動かないと10年後どうにもならないものね。

一か月分。
忘れてるのもある気がするのでそしたらあとで追加。
ジエン社も行けなかったし、TOCHKAも観れなかったし、そしたらもう暑さに負けて全部どうでもよくなってきました。どうでもよくなって今更CROSS † CHANNELに手を出しました。そしたらしばらく戻ってこれなくなりました。現実ってなんだろう。次元ってなんだろう。非実在なあの娘が笑ってくれるだけで、生きていけそうな気がします。


⑨ヒーローショー(井筒和幸) ☆☆☆☆☆☆☆★
⑩パーマネント野ばら(吉田大八) ☆☆☆☆☆☆☆☆

㊇ミステリアスセッティング(阿部和重) ☆☆☆☆☆☆☆☆★
グランド・フィナーレ(阿部和重) ☆☆☆☆☆☆
㊉さようなら、ギャングたち(高橋源一郎) ☆☆☆☆☆☆
㊉㊀「悪」と戦う(高橋源一郎) ☆☆☆☆☆☆
㊉㊁神話が考える(福嶋亮大) ☆☆☆☆☆☆☆
㊉㊂思想地図 vol1 ☆☆☆☆☆☆☆
㊉㊃青空感傷ツアー(柴崎友香) ☆☆☆☆☆☆

醞.家政婦が黙殺(篠房六郎) ☆☆☆☆☆☆☆
醬.ウワガキ(八十八良) ☆☆☆☆☆☆☆★
Ⅹ.生活【完全版】(福満しげゆき) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆



【ヒーローショー ネタばれあり】

「暴力」や「怒り」はひとつのベクトルであがゆえに、しばしばそれを介して「友情」が育まれたりもする。それは、よくある不良モノ(『クローズ』とか『クローズ』とかえぇと、『クローズ』)では当たり前の展開であるのだが、『ヒーローショー』に至っては、そういった暴力はただの「暴力」としてのみ機能する。そういった暴力性について色々考えていたはずなのだけど、忘れた。思いだしたら書き直すけど、たぶん思いださない。
その画面強度の強さは認めざるをえないけれど、全体としてどうにも評価できなかった。

ただ、ハッとしたのは、登場人物たちはがどこにも「所属」できていないことだ。彼らは唯一「暴力」にのみ所属している。そしてそれは今を生きるわたしたちの姿でもある。

わたしたちはもはや「場」に対する「所属」を許されない。日本に住んでいようがグローバル化のもとでは外国の影響はを受けざるを得ないし、ネットの登場でかつてほど都会と田舎の差はなくなっている(とはいえ、田舎出身のわたしは今現在も様々な点でその土地的な圧倒的な差を感じざるを得ないが)。

生まれた国に、土地に、学校に、家族に、「所属」できなかったわたしたちは「恋人」や「ネット」や「(オンライン)ゲーム」などにその所属を求める。

では、そこまで行ってどこにも所属できなかったわたしはどうなるのだろう。

きっと「行為」に所属することになるのだと思う。

自傷」、「万引き」、「ギャンブル」、「飲酒」、「痴漢」、「セックス」、「暴力」。

映画に話を戻そう。
彼らは「暴力」に所属していた。というか、してしまった。
この映画を観て、怖いと思うのはこれが他人事なんかでは決してないからだ。
だってわたしたちはどこにも「所属」していないから。

そんな中ささやかな希望は、主人公のユウキ(だっけ?)が、どこにも所属できていないことをなんの気にもせずにぽけらーっと生きているところだ。

ラストシーンで、彼は父と母に店番を代わる旨を伝え、ふたりを画面から追い出す。
その瞬間、かれは「家族」にももはや所属していない。
しかし彼の表情はとても安らかですらある。

彼はどこにも所属しない。何にも所属しない。
しかしそれは決して哀しいことではない。

それは従来の「ヒーロー」の姿では決してないし、「見世物」にしては詰まらなすぎる。
しかし、これこそが現代の「ヒーロー」のあるべき姿なのだ。

と、ここまで強引に論を引っ張ってみたら案外悪くない気がしてきたぞ『ヒーローショー』。引っかかってたラストシーンとタイトルも繋がったし。


村上春樹東浩紀阿部和重高橋源一郎
1Q84』と『クォンタム・ファミリーズ』と『ピストルズ』と『「悪」と戦う』を並行して論じたいのだけれど、如何せん時間がなくてできない。
誰か論じるような気はしているのだけど、どうなんだろうか。

そしてちょっと前には舞城の『みんな元気。』があった。

そろそろ「血縁」にこだわるのはいい加減止めようぜ、とほんとに思う。
少なくとも上記の文学たちはそのことをまっとうに伝えてくれる。


【生活 完全版 (福満しげゆき)について】
なんだかわからないけど猛烈に感動した。たぶん人生ベスト5に入るマンガ。
人生の全部がここには詰まってるんじゃないかって思うくらいの。

「まなざし」の先に

⑦空気人形(是枝裕和) ☆☆☆☆☆☆☆★
醃.年上ノ彼女1,2(甘詰留太) ☆☆☆☆☆☆☆★

ようやく観た空気人形はとりあえずカメラがよすぎました。
美術も種田さんだし、布陣として最強じゃねーかと。

あたしは是枝作品は正直苦手なのですが、そんな是枝作品の中では一番好きかもしれません。

是枝監督はドキュメンタリー出身だからなのか、細部に対するまなざしはとても豊かだと思うのですが、いかんせん全体の構成が大味すぎてげんなりすることが多いのも確かです。それは本作にもある意味では当てはまるのですが、それにしても「おや、今回の是枝は違うぞ」という感じが強かったです。それはやはりぺ・ドゥナという主人公の力が大きかったのでしょう。

是枝作品でいつも感じるのは、登場人物が物語を引っ張るのではなく、かといって監督が引っ張るのでもなく、状況が物語を引っ張る、というものです。
そしてその態度は決して悪いものではないと思うのですが、そういった物語の中にあるとき突然監督がぐわっと出てくる瞬間が散見されて、その度あたしはぎょっとしてしまうのです。悪い意味で。何も、ぎょっとするのがいけないというのではありません。実際、あたしは塩田明彦監督の作品には何度もぎょっとされ、その度に何度も気持よくさせられているのですから。でも、「ぎょっとする」には気持いいものと気持悪いものがあることを、あたしたちは知っているはずです。
さて、ぎょっとさせられるのは今回も同じで、そしてそれはやはり気持のよいものではないのですが、『空気人形』に至っては、それを上回るだけの細部に対するまなざしと、全体を包括するまなざしが備わっていました。

是枝監督が細部を、ぺ・ドゥナが全体を。
そして、そのまなざしは当然のようにわたしたち観客をも巻き込んでゆきます。

物語は、窓の外に横たわるぺ・ドゥナ(とその周りに点在しているりんごやガラス瓶)を見つめるひとりの少女のまなざしを持って終わりを告げます。
かつて誰かが空気人形に吹き込んだ息によって、ぺ・ドゥナの生が始まったように、今度はぺ・ドゥナによる息によって誰かの生が始まります。そして、息を始めたあたしたちが次にすることは果たしてなんなのか。

それは「見る」ことに他ならないのです。

偽物語

ゴールデンスランバー(中村義洋) ☆☆☆☆☆☆☆☆
ゼブラーマン2(三池崇史) ☆☆☆☆☆★
うる星やつら2 ビューティフルドリーマー ☆☆☆☆☆☆

㊂一九八四年(ジョージ・オーウェル) ☆☆☆☆☆☆★
アメリカの夜(阿部和重) ☆☆☆☆☆☆☆★
ピストルズ(阿部和重) ☆☆☆☆☆☆
野ブタ。をプロデュース(白岩玄) ☆☆☆☆☆☆

鄯.神のみぞ知るセカイ1〜3(若木民喜) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆
鄱.響子と父さん(石黒正数) ☆☆☆☆☆☆☆
鄴.淀川ベルトコンベア・ガール1(村上かつら) ☆☆☆☆☆☆★
鄽.聖結晶アルバトロス1(若木民喜) ☆☆☆☆☆☆
酛.R−中学生1(ゴトウユキコ) ☆☆☆☆☆☆☆★

阿部和重は「あいだ」の人なのだと思う。肯定と否定、現実と虚像、先代と後継、それら「あいだ」での運動。それこそがやがてことばを産み、そのことばがやがて文章へと、そして小説(らしき)ものへと変貌を遂げていく。
デビュー作『アメリカの夜』にはその性格が色濃く反映されていた。
そして「あいだ」は埋められるためにこそ在る。
だから、阿部和重阿部和重としては存在しない。絶えずそれ以外の何かにその姿を変えながら、動きつづている。そして、その運動こそが阿部和重なのだと思う。

さて、あいだを埋める、ということであたしが思い出すのは伊坂幸太郎で、彼はひたすら「わたし」と「あなた」の間に横たわる溝を埋めることを繰り返し描いているように思う。とはいえあたしが読んだ伊坂本はせいぜいが5冊、それもゴールデンスランバー以降はいっさい触れていないので、最近の傾向はわからないのだけれど、少なくともあたしが読んだものものの中で、彼は「思わぬ人が思わぬ人と繋がって、そのことにより世界が少し変化する」みたいなことを(乱暴に言いきってしまえば)描いていた。それはときに「楽観的すぎる」という非難も受けていたが、しかし、恐らく彼は信じているのだと思う。それこそが小説にできる、数少ない行為なのだと。つまり、小説を書くということは「祈り」に似ている(あるいは、祈りそのものでしかない)ということだ。

繋がりについて考えてみる。かつて、ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で指摘したような、新聞の発明によって産みだされた「想像の共同体」は、あたしたちがもはや新聞なんて全然読まなくなっちゃったことで消滅しかかっている。あたしたちはもう「あたしたち」じゃなくなって、「あたし」と「俺」と「ぼく」と「わたし」と「パパ」と「ママ」と「先生」とになって、バラバラになっちゃった。
だから「あたし」と「俺」と「ぼく」と「わたし」と「パパ」と「ママ」と「先生」はもう一度「あたしたち」になりたくって、それがオウムみたいな新興宗教を加速させていった。「あたし」はもう一度「あたしたち」になって、でも、その結果多くの人が犠牲になった。強制力の強い「集団」の危険性について議論が交わされ、「あたしたち」はあたしたちになることでゆるやかな集団を希求するようになったんだと思う。
そしてインターネット。あたしは多くのコミュニティで様々なあたしを発見する。そしてあたしたちに参加する。疑似あたしたち。それはもちろん「あたしたち」じゃないけど、確かにあたしたちで、だから気持いいし、気持悪かったらまたあたしになればいい。どうせ「あたしたち」もあたしたちも偽物なら、入れ替え可能なほうをあたしは選ぶし、「国家」とか「血縁」とか「性別」とか、そういうカッコはもういらない。あたしたちは疑似でいい。本物(らしい)ものなんていらない。気持いい疑似と気持よくない本物なら、気持いい疑似を選ぶのは当たり前でしょ?

『ハルフウェイ』は徹頭徹尾「偽物」で塗り固められていた。不自然な二人の出会い、そして会話。おかしな動きをするカメラ。そして何よりタイトルの「ハルフウェイ」が主演の北乃きいによる「造語」だったことを思い出して欲しい。
それでも、あたしたちはこの物語を肯定する。「嘘っぽい?」知ってるよそんなこと。あたしたちの生きている世界は全部、偽物で、でもだからなんだっていうの? そんなこと当たり前で、でもあたしたちは生きる。気持いい疑似と気持よくない本物なら、気持いい疑似を選ぶのは当たり前なんだから。